会陽起源について

~会陽起源について~

奈良時代の大法会が陽春を迎える吉兆行司に

名誉住職 坪井全広

 会陽の歴史は遠く奈良時代に始まる。奈良・東大寺の実忠上人が創始された修正会(しゅしょうえ)・即ち新年の大法会(だいほうえ)を、西大寺を開山された安隆上人(あんりゅうしょうにん)が伝え、毎年旧正月から14日間行われていた。

約5百年前の室町年間、時の住職忠阿上人は、修正会結願の日の旧暦1月14日、参詣の信者たちに「牛玉・西大寺・寳印」と書かれた守護札を出したところ、これを戴く者は福運が得られると希望者が続出し、やむなく参詣者の頭上に投与すると猛烈な奪い合いになった。だが紙のお札だと破れてしまう。やがて直径約4センチ、長さ20センチほどの木に替わり、これを得たものに福を授けた。いつの頃からか、これは「宝木」(しんぎ)と呼ばれるようになった。

また宝木の奪い合いの中で身体の自由を得るため裸となり、無垢の信仰心は水垢離となって、徐々に修正会と一体となった現在の形になったと伝えられる。

かつて会陽は修正会結願の日の旧暦1月14日に行われていたが、観光化が進んだこともあり、昭和37年(1962)からは2月第3土曜日に執行されることとなった。因みに会陽の語源は、困難で厳しい冬が過ぎ、やがて陽春を迎えるという吉兆の意味である。

会陽の行事は19日前の事始式に始まる。事始式では会陽の安全を祈る法会があり、別室では宝木削りに使用する道具が世襲の棟梁によって磨かれる。ついで3日後には、宝木の原木を受け取りに行く宝木取りの行事が行われる。深夜零時に寺の総代7、8人が法被を着て草鞋に手甲脚絆、菅傘をかぶり、手には提灯を持ち、当山の西方4キロの無量寿院へ片道約1時間を歩き、宝木の原木を受け取って持ち帰る。翌日には作法通りに宝木削りの秘儀が厳かに執り行われ、一対の宝木を寺の僧が作り上げる。

会陽の二週間前からは本尊千手観世音菩薩の宝前を荘厳して修正会が開かれ、山主(住職)以下10余人の僧侶により、国家安穏、万民豊楽が14日間毎日祈り続けられる。2月第3土曜日の会陽当時は、各地から数万の参拝者が訪れる。

夜が更けるにつれ、その熱気は御福窓から撒く大量の水も一瞬にして湯気に変えてしまうほどになる。約9千人の裸人のどよめきは、古には四国にまで聞こえたと伝えられている。そして午後10時、御福窓から山主が宝木を投下すると、西に東に裸の大渦が流れるさまは、勇壮無比である。

※上記の文章は日本の祭りNo.28(朝日新聞社)に寄稿したものである。