牛玉所殿本殿の神仏

金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)

不動明王
不動明王
毘沙門天
毘沙門天

当寺御祈祷所の金毘羅大権現は、本来は讃岐の象頭山に金毘羅大権現のご本体として安置されていたものである。奈良朝時代に広まった神仏混淆(しんぶつこんこう)の思想は、平安朝時代に入り弘法大師空海と伝教大師最澄の、”神仏は本来同一のものである”という本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によって確固たるものとなり、鎌倉時代に最盛期を迎えた。

以来、寺院の中に鎮守として神社を、神社の中に別当寺を設けるという様式が生まれ、この思想と風習は徳川時代末期まで続いた。

ところが、明治維新のころ”神国日本は古来の神をこそ祀るべきで、渡来した神仏を祀る必要は無く、よって仏像・寺院は破壊するべきだ”という廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が起こり、仏教は迫害された。

讃岐の象頭山松尾寺金光院の鎮守として祀られていた金毘羅様もその被害を受け、松尾寺はその住職が僧職を辞し、神職として日本の海上安全の神である金刀比羅(ことひら)様に奉仕することを決め、寺院から神社へとその姿を変えた。このため多くの仏像が打ち壊しになり、これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治3年(1870年)7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。

その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移り、当山住職の長田光阿上人が明治15年(1882年)3月5日当山へ勧請した。現在は、もともと当寺の鎮守である牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀されている。

通常は秘仏ですが、正月元旦から14日間のみご開扉致します

牛玉所大権現(ごうしょだいごんげん)

前立 牛玉所大権現
前立 牛玉所大権現

 牛玉所殿本殿には、奥殿にまつられる本尊の牛玉所大権現が秘仏の為、前立の牛玉所大権現(御影は本尊と同じ)がまつられています。 当山では元来密教の明王である五大明王を、神仏習合の姿(権現)の姿、牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん)として崇めています。
 五大明王とは中央より不動明王・降三世明王(東)・軍荼利明王(南)・大威徳明王(西)・金剛夜叉明王(北)と並ぶ如来の使者の事を言います。

不動明王(ふどうみょうおう)

不動明王(ふどうみょうおう)
不動明王

 梵名アチャラナータは「動かない守護者、無不動、不動使者」を意味します。また、アチャラナータは古代インドのシヴァ神の異名でもあります。また、この不動明王はもっとも威力があり、興徳も大きい明王で、大日如来の命令でこの世の悪を断ちます。また、悪を罰するだけでなく、修行する者を護る仏でもあります。
 姿は、莎髻と呼ばれる巻髪で、右目を見開き、左眼を半眼に閉じる天地眼で、下歯で上唇の端を噛むみ右手には剣を持ち、左手には羂索を持ち、火炎光背を背負っています。この明王は、単独でもまつられる他、脇侍として、矜羯童子・制多迦童子の二童子のほか、眷属として八大童子を従えるものがあります。

降三世明王(ごうざんぜみょうおう)

降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
降三世明王

 インドのシヴァ神が起源とされている仏です。阿閃如来の命を受け、五大明王で東方に位置する不動明王に次いで格の高い明王です。3つの世界(現在・過去・未来の三世)と貪=むさぼり・瞋=怒り・痴=無知の三毒(煩悩)を降伏する(抑え沈める)仏なので降三世といいます。
 姿は三面八臂で、左足で仏教の教えに従わない大自在天(シヴァ神)、と右足でその妻の烏摩妃を踏みつけています

軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)

軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
軍荼利明王

梵名のクンダとは「水器、瓶」、リーは「止める」の意味でサンスクリット語では「とぐろを巻くもの」の意。瓶は不老不死の霊薬とされる甘露を入れる器であって、甘露軍荼利とよばれています。軍荼利明王は宝生如来の命令を受け、様々な障害を取り除いてくれると言われています。
姿は、顔に3つの眼があり、腕が8本の一面三眼八臂像で中心の2本の腕は胸のあたりで交差します。体に巻きつけている蛇が特徴です。

金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)

金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
金剛夜叉明王

 梵名のヴァジュラヤクシャとは「金剛杵の威力をもつ夜叉」という意味。不空成就如来の命を受け顕れた明王で、過去・現在・未来の悪と欲を呑み付くし、取り除きます。  姿は、3つの顔をもち、6本の腕をもつ三面六臂で、正面の顔には左右の眼を二段に4つあり額の所に1つある五眼です。他の顔にも三つの眼があります。

大威徳明王(だいいとくみょうおう)

大威徳明王(だいいとくみょうおう)
大威徳明王

 梵名のヤマーンタカとは「死の神ヤマを倒すもの」という意味。阿弥陀如来の命を受け顕れた明王です。
チベットの伝説では、悪鬼と化した修行僧を折伏するために文殊菩薩が変化したとも言われています。これによると昔、ある修行僧が悟りを開く直前に盗賊達に襲われ、共にいたスイギュウともども首を刎ねられて殺された。 悟りの境地に至る直前にその望みを絶たれた修行僧の怒りは凄まじく、そばに落ちていたスイギュウの首を拾って自分の胴体に繋げ、盗賊達を皆殺しにした。彼はそれだけでは飽き足らず、ついに関係のない人々をも無差別に殺す悪鬼・死神に成り果ててしまった。これに困った人々は文殊菩薩に助けを求めた。文殊菩薩はその悪鬼と同じような牛面で、しかも悪鬼以上の武器をもった姿に変化して戦い、ついに悪鬼を倒した。この姿が大威徳明王なのだといわれています。
姿は6つの顔は六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)をくまなく見渡す役目を表現したもので、6つの腕は矛や長剣等の武器を把持して法を守護し、6本の足は六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を怠らず歩み続ける決意を表していると言われています。

白玉文殊菩薩(はくぎょくもんじゅぼさつ)

白玉文殊菩薩
白玉文殊菩薩

 この仏さまは平成22年(2010年)の牛玉所殿大修復を機に、中国普陀山より奉迎された、白翡翠(しろひすい)製としては国内で最大級の文殊菩薩です。文殊菩薩は智恵の仏さまとして試験合格、学業成就、智恵堅固のご利益は有名ですが、白翡翠も同様に智恵の力を授かる事が出来る宝石として知られています。文殊菩薩はサンスクリット語でマンジュシュリーと呼ばれ、南インドで実在した人物で、智恵に優れた修行僧でした。この後経典に取り入れられると、文殊師利菩薩として崇められるようになり、普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍としてよくまつられています。
一獅子に乗る姿が一般的であり、獅子は百獣の王で文殊菩薩の智慧が秀抜であることを表しています。

善如龍王(ぜんにょりゅうおう)

善如龍王
善如龍王

善如龍王(ぜんにょりゅうおう)は鎌倉時代、帝(みかど)の雨乞い要請により、京都二条の神泉苑で弘法大師空海が7日間の読経の末に勧請された龍神と云われています。
西大寺の建立までの縁起に登場する龍神信仰とのつながりに深く影響され、信仰の対象となっているものと思われます。また、図像ではなく木彫像として祀られているのも全国でも他にあまり例をみないところも、龍神信仰の深さを物語っています。

青面金剛(しょうめんこんごう)

善如龍王
青面金剛

中国道教では人間の中には、三尸の虫(さんしのむし ※上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)がいて、庚申の日の夜(60日目の庚申の日)に、人が眠りに就くとその虫が身体から抜け出し、その人の悪い行いを天帝(日本では帝釈天と同一視)に報告されると寿命が縮まり、疫病や災難にあうとされてきました。この言い伝えが日本に広まると、奈良時代末頃から貴族を中心に、寝ている間に三尸の虫が抜け出ないよう、夜を徹するための趣向を凝らしたさまざまな遊びが流行しはじめました。
青面金剛は元来疫病を流行させる鬼神でしたが、改心して病を駆逐する帝釈天の使者となると、四天王寺庚申堂を始まりとして三尸の虫を食べるとされる青面金剛が司命神として祀られるようになりました。こうして長生きを願う人々が集うと、青面金剛をご本尊として徹夜をする「庚申待ち」と呼ばれる行事として各地に信仰が広がったと云われています。
当山では新年14日間に限りご開扉されており、疫病除けの神として多くの信仰を集めています。
体の色は青(緑)く、六本の腕を持ち、それぞれに弓矢宝剣と、三尸の虫を現す「ショケラ」 と呼ばれる上半身裸の女人を握っているのが特徴的です。また、髪の毛は逆立ち、体に蛇を纏い、足に鬼を踏みつけています。

秘仏の為、毎年1月1日~14日までしかご開扉しておりませんが、新型コロナウィルスが鎮静するまでご開扉をさせて頂き、
参拝者皆様に青面金剛の紺紙の紙札を授与致しております。