令和10年 秘仏ご本尊ご開扉 開山1250年大祭
時あたかも来る令和十年は開山一千二百五十年という大きな節目を迎え、さらに 秘仏ご本尊観世音菩薩の三十三年ぶりの御開扉という大勝縁を迎える事になりま した。
この時に当たり、あまねく天下の奇特に浄財寄進を仰ぎ、ご本尊ご開扉 開山 1250年大祭 令和の大修復を奉修致します。この浄行功徳によって、近年の コロナ禍による疫病や災害、戦争や紛争で疲弊していく社会に、ご本尊の慈悲な る光が照らされ、希望の祈りの灯が子孫に伝えられ、世界中に広がっていくこと を願います。
何卒この趣意にご賛同頂き、格別のご助力を賜りますよう伏してお願い申し上げます。
「南 無 大 慈 大 悲 観 世 音 菩 薩」 合掌
令和3年10月吉日 金陵山西大寺修復奉賛会
加藤巍山師 造立仏 長谷寺原木祈祷(ロングversion)
加藤巍山師 造立仏 長谷寺原木祈祷(ショートversion)
ご本尊 千手観音さまの伝説
~西大寺縁起より~
天平勝宝3年(751年)、周防の国(山口県)玖珂庄に住む藤原皆足(ふじわらのみなたる)姫が、造像の依頼をした仏師との約束を違えてしまい、仏師は怒って消えてしまう。
姫は、長谷(奈良県)が仮の住処だと言った仏師のことを、長谷観音の化身だと思う。
そして残された本尊の彩色荘厳と長谷寺参詣のため、千手観音像を舟に積み、京へ向かう。
ところが金岡庄松中島(現在の西大寺金岡)で、なぜか微動だにしなくなった舟。本尊を降ろしてみると舟がふわりと浮き上がる。
奇蹟を目の当たりにした男らは裸体のまま礼拝した。
姫は、この地に留まることが観音さまのおぼしめしと、やむなく小さなお堂を建て、そこに仏像を安置した。
正安元年(1299年)、落雷による火災が発生。堂宇全焼。絵には描かれていないが、突然、本尊が大きくなったため、寺僧らはかき出せず、手のみを落として持ち出したという。
鎮火後、灰の中から本尊の頭が無傷で現れ、僧俗とも歓喜、驚嘆する。
現場を探る僧らの姿に、深い信仰心が表れている。
この後、手と頭をもとに再び本尊が造像される。
天文元年(1532年)、兵乱により西大寺回禄。戦う侍、逃げ惑う僧俗男女、かろうじて経巻等を持ち出した僧らと稚児らの姿がみえる。
誰にも知られず、本尊は川沿いの洲崎に飛ぶ。
数日後、村人がこれを見つけて一層深く信仰する。この後、本尊は帰座し、堂も再興されたという。
本尊十一面千手観音菩薩(前立)
「十一面千手観音」、「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」、「千手千臂(せんぴ)観音)」など様々な呼び方があります。
腕の数は1,000臂ではなく42臂ですが、これは胸前の合掌する両腕以外の40の腕が一臂に付き25の世界の衆生を救うからであるとされ、25×40=1000の世界を救うという意味から「千手」と呼ばれています。またこの千手の掌には目が存在し、その目を以って千の世界を見渡し苦しむ衆生を見つけ出して救い取るとされています。
密教においては「蓮華王」と呼ばれ、観音菩薩の変化身の中でも最も徳の高い観音さまです。
災難、延命、病気平癒、夫婦円満、恋愛成就などあらゆる現世利益にご利益があるとされますが、当山では会陽参加した時のまわしを腹帯にすると安産になることから、安産としての功徳が高いご本尊さまでもあります。
制作年代は江戸時代(ご本体は不明)
多聞天 たもんてん(本尊東側)
四天王の一つ。常時、如来の道場を守り、法を聞くことが最も多いことからこの名前があります。北方を守る仏法守護の神将で、甲冑(かっちゅう)をつけ、両足に悪鬼を踏まえ、手に宝塔と宝珠または鉾(ほこ)を持った姿で表されています。一尊でまつられる時は毘沙門天と呼ばれます。
制作年代は江戸時代。
広目天 こうもくてん(本尊西側)
四天王の一つ。須弥山中腹の西方、周羅城に住し、西大洲を守護するところから西方天とも呼ばれます。悪人を罰し仏心を起させます。像容は冑を着け、左手に絵巻、右手に筆を持ち、足下に邪鬼を踏みつけています。
制作年代は江戸時代。
不動明王 ふどうみょうおう(本尊宮殿裏東側)
不動明王は大日如来の使者として童子でありながら、教化しにくい人々を教化するために、外見上恐ろしい忿怒尊となって、大日如来がおとなしく従わない人々を従わせるとして有名です。
邪悪な心を持つ者を、左手に持った羂索という縄で縛り上げ、正しい考えや行動が出来るように、右手の智慧を象徴する利剣で矯正して正しい道に再び戻すとされています。
日本の不動明王信仰は、弘法大師空海が中国より不動明王を本尊とする経典を持ち帰り、国家護持のほとけとして出発しました。しかし、以降密教の修法が確立されると、貴族階級の人々によって安産や治病などの祈祷にも用いられるようになり、護摩行を通して日本中に広く信仰が広まりました。
制作年代は不明ですが、平安期の様式を取る大変貴重な仏像です。脇侍に矜羯羅(こんがら)、制多迦(制咤迦、せいたか)の 二童子を従えています。
愛染明王 あいぜんみょうおう(本尊宮殿裏西側/外陣)
大日如来または金剛薩埵の変化身とも云われ、特徴は赤塗りの忿怒相、一面または三面三目六臂で、獅子冠をかぶり、五鈷杵、五鈷鈴、弓、矢、蓮華などの持物をとります。
人間の最大の敵は三毒(貪る心 怒る心、愚痴をいう心)と云われていますが、こうした三毒を生み出す最も大きな煩悩は愛欲とされ、愛欲に染まる煩悩を悟りへ昇華させる明王です。愛欲を無理に拒否して断ち切ることをせ ず、欲望に向かう心のエネルギーをコントロールして、慈悲に満ちた悟りの世界に変える力で人々を導きます。
開山 安隆上人座像
当山を開山された安隆上人の座像が愛染明王と共に祀られています。
凛とした風貌をかもす像高24㎝の小形の木彫彩色像です。
制作年代は江戸時代後期
会陽開祖 忠阿上人座像
当山の中興の祖・会陽の開祖と伝えられています。
右手には牛玉杖を持ち、観音院の寺紋(輪違い紋)の袈裟をかけた、像高31センチの小形の木彫彩色像です。
縁起絵巻には「十穀の聖、紀州の人なり、無二の願いを起こして再興の志切なり。これ又化身の随一なるをや」と記され、観音化身の一人と数えられています。
制作年代は江戸時代後期