報告

「桜祭り」金牛神輿巡行

平成29年4月2日(日)

会陽が終わり、温かい陽春の兆を迎えた4月は年間を通し西大寺で会陽の時期に次いで2番目に人出が多く花見客や観光客で多く賑わっています。本年からこの賑わいにあやかって、「西大寺桜まつり」として金牛神輿巡行が行われました。天候にも恵まれ大変多くの参加者を頂き、中田東区長様、本年の福男、福男児の皆様、近隣の小中高の学生の皆様など約150名の方々により「わっしょい!わっしょい!」と力強く担がれました。

牛玉所・金毘羅大権現の御守護を賜り、西大寺地域周辺を約4時間巡行し会陽の御福のおすそ分け神事を行うと、商店街や沿道の方々より大変有り難いとの感謝の御言葉を頂くことができました。

『金牛神輿誕生ストーリー』

幕末、日本は神国で古来の神があるから外国から渡来してきた仏教は要らない、仏像は祀る必要はないという論争、廃仏希釈運動がおきました。明治に入ると政府による神仏分離令が全国に出され、讃岐の象頭山(現金刀比羅宮)に元来祀られていた「金毘羅大権現」も焼却処分される危機に面します。しかし明治7年、金毘羅大権現は象頭山万福院の住職宥明師が自分の故郷津田村君津の自宅に持ち帰り一難を逃れると、岡山県藩主池田章政公がこの話を聞いて自分の祈願寺である下出石村の円務院に移されます。

その後、廃藩置県により池田候が東京へ移り護持するものが居なくなると、明治13年3月5日、西大寺住職長田光阿上人(ながた こうあ)が円務院へ当時700円を寄進し金毘羅大権現(不動明王・毘沙門天の2躰)を迎え入れます。この時、これを記念して造られたのが「金牛神輿」です。形状は六角形、高さ2メートル、横1.70メートル長柄の長さ4.5メートル、重さは500キロ以上、頂上に鳳凰が飾られ、所々に牛・金の印が刻みこまれた荘厳華麗な神輿です。

昭和25年の夏、この金毘羅大権現の大祭として始まったのが「港まつり」といわれ、亀石祭りにつかうシャギリ船を借用し、この船に金牛神輿を乗せてエクスランの方まで吉井川を上下する「御渡(おわたり)」とう神事もはじまりました。このお祭りは夜待ち祭り、水祭りと並んで夏の3大祭りとして地域を盛り上げましたが、これは直ぐに途絶えてしまいます。この後、金牛神輿は昭和28年、昭和47年の夜待ち祭りの日に2回担ぎ出されましたが、いずれもその時限りで中止となり、寺の陰に所蔵されるだけとなると、その存在を知る人も殆ど居なくなってしましました。

平成元年、時を経て修復を余儀なくされていた金牛神輿でしたが、西大寺青年会議所のメンバー方々がこれを目の当たりにします。一寺院の所有物とはいえ、廃仏毀釈の荒波から、奇跡的に救われたご本尊が、安寧の場所を得られたのを記念して作られた御神輿です。歴史の証拠でもあり、地域の宝であることは間違いないと信じ西大寺青年会議所のOBと現役で、御神輿を再度発光させるため大修復が行われました。当初、この御神輿のことを、「観音院の大きな御神輿」と呼んでいましたが、まどろっこしいので、この時「金牛神輿」と命名されます。

いよいよ平成元年(1989年)からは地域の方約150名を集め神輿の巡行事業として2~3年程担ぎましたが、重量の関係で平成10年(1998年)からは「わっしょいカーニバル(1988年~)」にて金牛神輿を台車で引き、地域の子供の神輿の巡行を先導する「子供みこしの巡行協力事業」が始まります。(わっしょいカーニバルが終了する2016年まで)

こうして次第に金牛神輿は再び脚光を浴びることとなり、本格的に担ぎたいという若者が増えきました。そして、平成22年に会陽裸参加者を中心に西大寺神輿会が発足されます。神輿の担ぎ棒を長くして沢山の人が担げるよう改良を加え、鳥取県の東照宮の神輿の保存会の皆様に神輿の担ぎ方を習得しながら、会陽500周年を記念して今日の「金牛神輿の巡行」という新たなお祭りが誕生しました。